まいど!愚蛤庵主人です。
「性」って、なんなんだろう・・・?
ようやく、真剣に考え始めるようになりました(遅すぎ)。
ついてるかついてないか、っていうかんたんな問題じゃないんですよね。
いろいろ調べたり考えたりするうちに、単純に個人の性自認の問題というよりは、個人と社会のありかたの問題のような気がしてきています。
社会の中での「男」として振る舞う、あるいは「女」として振る舞う、というのが、いずれにしてもその背後に「こうある『べき』」という発想があるんですよ。
男としての役割、女としての役割、というものが予めあって、生まれたからにはそれを全うすべきだという思想ですね。
これって別に、歴史的にも生物学的にも、それを正当化する根拠がないんです。
歴史的に見てみたらどうなんだ、って調べてみたら、「~すべき」って言うほどのことでもなかったりします。
同性愛だって、世界的に見れば、古代ギリシアの哲学者ソクラテスは美少年を愛する人でしたし、日本でも平安時代には美少年を「お稚児さん」にする貴族や僧もおりました。明治維新までは、武士の間にも同性愛のならいはありましたし。昔のキリスト教聖職者の間にも、イスラム世界にだってありましたしね。それを思えば、「なにを目くじら立ててんすか?」っていうレベルですよ。
むしろ「~すべき」って目くじらを立ててる人は、変化に対する恐れを「~すべき」という言い方に変換して表現してるだけなのかもしれません。
なので、性(性自認)の多様化を容認するかしないかって、社会のあり方を変えるという意味では大きい問題なんですけど、正しいか間違ってるかって評価するものじゃ全くないです。
・・・というのが、現状でのぼくの考えです。
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長くなっちゃいましたけども。
なんでこういうことを書いたのかっていうと、今回はこの方を描いたからです。
氷川きよしさん。(クリックでびよ~ん!)
ご本人の性自認がどうなのか、っていうのはおいといて、はっきり言えるのは、氷川さんご本人が「自分はこうありたい」っていうのを表現するのに、誰かが文句を言う筋合いはまったくないっていうことです。
社会通念って、日本では個人に優先する場合っていうのが結構あって、彼も相当苦しい思いをしただろうと思います。
このたび、休業されるということです。ゆっくり休んで、元気になってくださいね。
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精進を重ねてゆきます。
では、またいずれ。愚蛤庵主人でした。
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