(※「リア虚」。より改題しました)
まいど!愚蛤庵主人です。
日付が変わってるので、きのうのことになりますが、「私設応援団長(団員約1名)」より励ましとお褒めの言葉をいただきました。ありがとうございます。
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唐突ですが、
「ありの〜ままの〜姿見せるのよ〜うぅぉ〜♪」っていう歌、流行りましたね。
「アナと雪の女王」でしたか。
あれを聞くと、「ようもまあ、いけしゃあしゃあと、無責任なこと言うわ!」と思っちゃいます。
・・・我ながらネガティブやなぁと思います。
なんでそれを今持ち出すかというとですね。
「ありのままの姿を見せる(見せられる)奴が、この世にどんだけおんねん!」
という疑問というか、憤りというか、複雑な思いがあるというのがひとつ。
「あえてそうすると、自分はどうなるか」ということに対して、答えとまでいかずとも、ヒントみたいなものがつかめるかもしれん、という思いがあるのがもうひとつ。
なので、ここに書いておこうと思います。(できるだけ短くするつもりですが、それでも長文になるので、申し訳ないですがお付き合いください)
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前置きになります。
いわゆるSNSをやっていると、それぞれに傾向があることに気づきます。
twitterやmixiなどは、基本ハンドルネームを用いた、匿名性の高いSNSなので、読んで楽しいものもある一方で、批判的であったり、否定的であったり、攻撃的であったり、ネガティブな発言を(比較的)よく見ます。(あくまで個人的な感想です)
twitterについては、「リツイート(他人のツイートをまんま流す)」という機能がついているので、これをたくさん使う人が多いのも特徴の一つです。個人的には「リツイート」は自分の言葉で話すことを放棄してると受け取られかねないので、多用はやめた方がいいと思います。
Facebookは、それに対して、実名で語られるものなので、傾向としては真逆といっていいです。みなさん、おしなべて平和なかんじ。充実感にあふれてます。(「シェア」という「リツイート」のような機能もありますけど)
いつのころからか、「リア充」(実生活が充実しとるぞ!くらいの意味だと思います)という言葉が出てきましたが、まさにそんなかんじ。
自分の不幸を語っちゃいけないような雰囲気満載です。
人間、だれしも「裏表ある」と言ってしまえばそれまでなんですけれども。
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わたしにも、裏表はありますし、自分自身でも触れたくないこと、ひとから触れて欲しくないことは、もちろん、あります。
ヨメさんにも、そういう部分はあると思うので、できるだけそういう部分を掘り返さないように心がけているつもりです(本人がどう感じているかはわかりません)。
幸い(?)わたしは「精神障害者」っていう看板をさげて歩いてる人間なので、そういうことについては、ある程度、周囲も織り込み済み(?)なので、受け取る側も、話を割り引くなり、敬遠するなり、対処のしようもあろうかと思います。
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タイトルにもありますけれど、わたしは「リア充」ならぬ、いわば「リア(仮)」といっていいと思います。
前置きでSNSのことを書きましたが、リアルにどこもかしこも充実してるというひとは、ほとんどいないんじゃないでしょうか。
いろんな悩みや、悲しいこと、辛いこと、怒りもあるけれど、それをことさら表に出さなくてもいいじゃないの、とか、むしろ、リアルをすこしでも充実させたいなあ、自分から充実してると思い込む方が精神衛生上いいなあ、と思ってるひとのほうが圧倒的に多いような気がするんです。
わたしは、疲れていたりすると、他のひとの「リア充」ぶりが痛かったりします。
そういうときは、たいてい、しばらくじっとしてると、そのうち戻ります。
・・・じゃあ、わざわざ「リア(仮)」なんてムリヤリ言う必要はないんですよね。
それでも、そういうことをあえて言うのは、「リア(仮)」が根本としてわたしの中にあるんだよ、それが「ありのままの自分」だと感じているんだよ、ということをお伝えしたいからです。
いつまでたっても「リアルは(仮)のまま」だなあ、と思うんです。
その理由を、いまから書きますね。
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小さい頃から、すこし「ひとより抜けてる」ところがあります。
いまだにそうです。別に珍しいことではないです。
ただ(エピソードを語ると異常に長くなりますので、かなり端折っちゃいますけれど)、抜けてるが故に、いろんな失敗をしてます。
その結果、「行く場所も、帰る場所も見つからない」まま、現在に至っています。
家(仮)に行けば、(それ相応のなにかをしでかしてたんでしょうけど)たいてい母(仮)の怒りを買って、痛い目にあいましたので、そこは「帰る場所ではない(現在進行形)」し、だからといって学校へ行ってもろくなことはないしで、自分がいる場所、帰る場所がどこだかわからない状態はずっとあります。
母(仮)の実の子だったり、そうじゃなかったりっていうのが理解できないまま、彼女の人生の最後まで、彼女に許されることも認められることもないまま生きてきたので、常に家(仮)、親(仮)のままです。
(彼女の名誉のために言っておきますが、わたしが一方的、反射的に「怖い」と思うだけで、母(仮)はリアルに母なんだと信じていますし、根は情の深い、いいひとです。)
おおげさでなく、自分のまわりはすべて「(仮)」なんです。
人も、モノも。
本だけはたまに買ってもらえたので(漫画は低俗だからダメ、という理由から却下)、自然とその中に入っていきました。歌うこと(不思議なことに学校ではほめられた)、落書きをすることも大好きだったんですが、家(仮)でそれをやると痛い目にあうので、自然と隠れてするようになりました。妄想の世界に没入です。妄想は大好きです。
家(仮)を離れて暮らして、自分のなかで「(仮)」の意識がはっきりした(というか、自分の実体がないことを強く意識した)ときに病院に入りました。自分の体を傷つけても、実感がありませんでしたから。
それからいろいろありましたけれど、ヨメさんと出会ってからは、完全ではないですが、彼女のおかげでずいぶん「(仮)」が減りました。彼女にはほんとうに感謝しています。
息子ができて、より実感が増していったんですが、息子に対するヨメさんの行動に衝撃と感動を覚えるのも事実です。「これが母というものなのか!」っていう場面をみるたびに思います。
で、社会(仮)の中でいろいろあって、去年になってようやく絵を描き始めたわけです。これもいわば「(仮)」を自分から取り払う作業なんじゃないかと思っています(とはいえ、まだ父に隠れて描いているんですが)。
・・・そんなわけで、自分の中にも外にも「(仮)」がついている以上、「リア(仮)」ということになります。
長年「リア(仮)」をやってるので、ほんとうの意味で「リアル」に直面することが怖いのかもしれません。
たぶん、「リア(仮)」は、「リアル」から身を守るための行動なんじゃないかな。
(自分に都合がいい「リアル」を「リアル」だと自分で決められれば世話はないです)
「リアル」を「充実させる」以前に、「受け容れる」ことすら、まだ痛すぎますが、それを目標にしていきます。
この「リア(仮)」が、「ありのままの自分」です。
昨今は、「真実」が「真実」でなかったり、「もうひとつの真実」があったりもするので、全然ワケわかりませんけれども。
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ということで、わたしの「リア(仮)」の話はおしまいです。
そんなこんなで、朝を迎えてしまいました。
ほんとうに長い文章になりました。
読んでくださってありがとうございました。
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でもって、きょう描いたのは、こどもの頃の自分です。(クリックでびよーん!)
よく家(仮)から叩き出されて(内鍵もかけられて)、帰るに帰れず、近くの公園でおんおん泣いてました。
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精進を重ねてゆきます。
では、またいずれ。愚蛤庵主人でした。
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